代表の生い立ちと家づくりへの想い
長男として誕生
昭和47年7月2日
盛岡赤十字病院にて
川島家の第一子の長男として誕生
生まれて初めての住まいは
当時の川徳デパートの隣
南大通り(旧町名 生姜町)の長屋でした。
ここが私にとっての住宅の原体験です。
子供の頃の私は引っ込み思案で、いつも母の後ろに隠れていた甘えん坊でした。
4歳の頃、南大通りから一時、祖父の家に引越し、祖父母・両親・私の5人暮らしが始まりました。
祖父は鉄工所を営んでおり、家の隣には大きな工場がありました。
夏には汗だくで昼食に戻ってくる身体の大きな祖父は、気付けに昼酒を飲んで午後の仕事に戻ってゆく、そんなワイルドな人でした。(今なら、ダメですよね!)
ある日、祖父は私を車の助手席に乗せ自分の鉄骨を納品した現場に連れていったことがありました。
大きなクレーンで鉄骨の柱や梁を吊り上げる様に圧倒され、こんな建物に携わっている祖父を誇らしく思いました。
このことに感化されたのか、幼い私は祖父に向かって「大人になったら、じっちゃんに家を建ててやる」なんて話した記憶があります。(実現はできませんでしたが…)
その後、現在の実家となる本宮に引越し、地元の小学校・中学校と通いました。
中学も3年生になるといよいよ高校への進路を決める段階になりました。
私は小学生の頃から学校に通うのがとても嫌で、小学校6年・中学校3年・高校3年のその後も大学に進学するというイメージを持てませんでした。
高校を卒業したら就職してというイメージのほうが身近で、その中でも「ものづくり」を学ぶ工業高校の建築科に進んだのは先の祖父の影響があったのかも知れません。
高校に進み、人と違うことばかりやりたがる私は当時流行り始めのトライアスロンに夢中になっていました。
しかし、スイムOK・バイクOK・ラン苦手で走るのが遅かった私は好きというだけで恥ずかしい記録しかない下手の横好きでした。
嫌だ嫌だと言いながら、結局楽しく過ごした高校生活も終わりを迎え、高校OBの社長さんのおかげで、地元の設計事務所で修行させていただきました。
設計事務所を希望した理由は、3Kと言われる建設業界でスマートでカッコイイんじゃないかという軽い気持ちでした。
ところが、そんな甘い世界は無く入社してビックリ!午前様なんて当たり前の世界。まだコンピュータによるCAD(図面を描くソフトウェア)はまだ普及しておらず、手書き図面の時代で、今ならコピー&ペーストで簡単に済むことも、全て手描きでした。
高卒のヒヨッコに当然「設計」などさせてくれる訳もなく、ただひたすら図面を描くドラフトマンであることに不満を感じ、気持ちがくさって、やる気が出ないことを環境のせいにしはじめていました。
今になって思えば、「設計」って書くことで造れるかどうか「平面を描いて立体を想像する」仕事なので、ただひたすら書くことが一番の勉強だったわけですが、20歳をちょっと過ぎた位の若造には、そのことが分かっておりませんでした。
設計事務所に4年勤め建築士の受験資格が手に入った頃、資格学校の営業マンの方が職場に訪問してこられました。「今の時代は資格学校に通わなければ試験に絶対合格できないから、皆さん必ずうちに通われていますよ。川島さんも通われた方がいいと思いますよ。」そんなふうに言われました。必ずとか絶対と言われると反発心から、俄然やる気がでまして、「資格学校に行かずにとってやる!」そんな想いで猛勉強しました。
まだ高校での学習の記憶や職場での修行の成果なのか、運よく一次試験の学科は合格できました。ところが二次試験の製図は設計事務所に勤めているにもかかわらず不合格になってしまい、先輩方にもからかわれましたが、次の年には二次試験も合格し、晴れて二級建築士の資格をとることができました。
しかし、「設計」をよく分かっていなかった若造の私は5年で嫌になり、建築の世界から離れるつもりで退職しました。
初めて自由を感じた私は、晴れ晴れしい気持ちで退社の次の日には大きなリュックにテントを詰め夜行バスで家を飛び出しました。東京から徒歩・電車・フェリーで西へ西へ移動して行きました。色々な人との偶然の出会いがあったり、遠方で普段会うことの出来ない親戚を訪問したり、楽しく旅を満喫していました。
やがて西へ西へ進んだ私は神戸に辿り着きました。まだ傾いたままのビルや倒壊した建物・舗装の亀裂など生々しさの残る阪神淡路大震災被害の街並みに設計という仕事を改めて考えさせられました。
家づくりへの想い
約半年の間に旅人→ニート→アルバイト(肉体労働)を経て心の洗濯を終えた私は、やはり設計の世界に戻りたいと考え住宅会社に就職させていただきました。「木造住宅なら設計からやらせてもらえるだろう」そんな気持ちもありました。
住宅会社に勤めることが出来た私はお客様のマイホームのお手伝いをする日々の中、当然のように私もいつかは自分の設計でマイホームを持ちたい!お客様に提供している快適な住まいで自らも暮らしてみたい!と考えるようになってゆきました。
その後30歳で結婚して二人で暮らし始めた住まいは私より年上の築31年の平屋の借家、快適な住まいへの憧れはより強くなりました。と、いいますのも…
冬になると、この借家はとても寒く石油ファンヒーターのスイッチを止めると一瞬で外の気温と変わらなくなりました。結露もひどく窓は当然のことながら押入れの中に入れた「水とりゾウさん」(湿気取り)は、あっという間にパック容器が水でいっぱいになってしまいました。
そんな中、息子が生まれ妻と三人の生活が始まったのですが、この寒い環境の中、ある出来事がおこってしまったのです。
当時我が家には暖房機が2台、内1台は居間に石油式ファンヒーター、もう一台は台所に石油反射式ストーブを置き、上にやかんを乗せお湯を沸かしていました。台所はとても冷たくマットを部分的に敷いていたのですが、結露があり滑りやすくなっていたのです。
ある日曜日の昼間
子供を抱いて家事をしていた妻は台所で足を滑らせ、ストーブの上にある「やかん」にぶつかり、お湯で息子の頭をやけどさせてしまいました。
大泣きする息子を抱えて休日当番病院まで大急ぎ車を走らせました。幸いお湯の程度と、すぐ冷やしたので大事には(息子の頭に小さなハゲは残してしまいましたが)至りませんでした。
こんな事故もあり、より安全で快適な温度環境への憧れは強くなり、第二子のタイミングでいよいよマイホームを建てる決意をしました。
ところが、当時の会社は営業部と建築部はきっちり分かれており、住宅ローンの事はよく分かっていませんでした。正直なところ、変動金利と固定金利の違いもよく分かっておらず、まして自分がどの位の金額を借りられるかも全く分からないまま計画をスタートさせました。他人に作ってもらった資金計画は借りたい金額と借りられる金額の差にガッカリしつつ、いかに建設費を抑えるかに夢中になっていきました。
そんな中、設計畑を歩んできた私は間取りやデザインには気合を入れていましたが、正直、性能云々に関しては「スタンダードでいいでしょ!」位の感じでした。ところが、実はここから間違いが始まっていたのです。
私の理想の家庭のイメージは「サザエさん」畳敷きの部屋にちゃぶ台を置いて家族が囲む。くつろぎの時間はカツオが畳にゴロゴロして漫画を読む的な住まいのイメージでした。その憧れのままリビングは一部畳敷にして丸いちゃぶ台を置きました。(サザエさんのアニメより直径が大きめですが)満を持して床にゴロゴロを始めましたが、うつ伏せになるとお腹がゴロゴロ(ゴロゴロ違い…)鳴ってしまうのです。冬場の床付近は温度が低くお腹が冷えてしまうのです。
しかも、窓の方からは冷気の気流感もあり、とても不快でした。今なら何故そういう空間になってしまったのか、すぐわかるのですが、当時は分からず、ただ不満感をくすぶらせておりました。それでも暖房設備は当時流行りの「オール電化蓄熱暖房機」深夜電力を使った全館暖房なので、多少は家の性能の不満も暖房機の暖かさでカバーしているつもりでした。
しかし、その後いかに自分が「井の中の蛙大海を知らず」だったかを思い知ることになりました。会社勤めをしていると、よほど積極的に知識を得ようとしない限り、その会社の標準仕様なるものだけで仕事が出来てしまうものなのです。その結果が自邸の性能に対する不満だったわけです。
その後エネルギーパス協会・パッシブハウスジャパン・新住協etc…、セミナーに参加しまくり、本を読みまくり、学べば学ぶほど気密・断熱性能の重要さを知り、そして自邸程度の性能よりもっと高性能化することにより、快適に健康的に、そしてなにより省エネ(無駄にエネルギー費を払わなくて済む)の家をつくることが出来ることを学びました。
サクラファクトリーは創業以来「W断熱(付加断熱)」にこだわり、気密性能(実際の気密試験で検証し)にこだわり、また自然のエネルギーを生活に取り入れてゆくパッシブ性能を向上させる取り組みを続け今までよりワンランク上の「快適性能」を提供しております。
断熱・気密性能の向上によって得られる暖房・冷房の省エネ性能はそのまま、お客様が生活のためにお使いになる暖冷房費という「お金」です。設計者として、お客様の財産を預かる立場として、お客様がお住まいになってからの電気代や灯油代が少しでも安く済むように、ご提案しております。
また、基本性能の高さは住宅に携わる者として当たり前の仕様と考え、使いやすく気持ちの良い空間・落ち着く空間をお届けしたいと設計しております。
サクラファクトリーの家にお住まいになるお客様に「よくできました」とおっしゃって頂けるよう、より高性能化した住まいづくり・より快適な住まいづくりに日々努めております。